home > 女子パウロ会とは > 新世紀ルーツへの巡礼 > 6-パウロ家族と第二次世界大戦、その後 > 9) ベルティーノ神父の証言からみる中国 (3)
新世紀ルーツへの巡礼
6--3 旅、そして旅
9) ベルティーノ神父の証言からみる中国(3)
あらたなる災難
ロアッタ神父:
そして、また、災難が降ってくるのですね。
ベルティーノ神父:
日本とアメリカの戦争が勃発したのは、極東でのカトリック宣教全体のために大変痛ましい結果をもたらしました。1941年末のことです。数多くの宣教師が拘禁されました。アメリカからの援助は全面的に途絶え、そのために私たちも大いに困りました。
イタリア降伏の時期からは私たちも軟禁状態で、4カ月の間、南京の住居から動くことができませんでした。その後、かなり限られた形ではありましたが、私たちの出版と学校を再開できました。
戦争終了のニュースを受けたのは、1945年の被昇天祭の日でした。再びアメリカからの援助が得られ、アメリカ合衆国の私たちの兄弟たちからの援助も来るようになりました。この時期のボッラーノ神父の私たちへの援助の努力は、感謝なしには考えられません。
ロアッタ神父:
そして、また新たな試練ですか。
ベルティーノ神父:
今度は中国を覆い尽くそうとしていた共産主義が、中国の人々の間で働いている教会と宣教活動のいっさいの息の根を止めようとしていました。これは、だれにとっても大きな悲しみでした。
ロアッタ神父:
あなた方の人数は増えていたのですか。
ベルティーノ神父:
1947年の復活祭ごろ、中国に二人の愛する兄弟たちが到着しました。ヴィットリオ・ボネッリ神父とアルフォンソ・パナロ修道士、二人とも優秀でした。この人たちは忘れられない人たちです。
ロアッタ神父:
そうでしょう! 愛すべきパナロ修道士は、後でメルボルンに行き、亡くなりました。
ベルティーノ神父:
残念ながら、そのとおりです。じつに寛大な、見事なパオリーノ(パウロ会士)だった。勇気いっぱいでした。人民裁判にかけられたときにも、中国から追放されたときにも、それは変わりませんでした。
ロアッタ神父:
ボネッリ神父は、あんなに若く……。
ベルティーノ神父:
南京で亡くなりました。31歳でした。中国での私たちの宣教の大きな希望でしたが、中国ではたった16カ月生きただけです。中国語もかなりできるようになっていましたし、小さなブック・センターも開いていました。熱心で勇気があって。ほんとうに、大きな希望でした。ちょっと患っただけで、1948年8月 4日に亡くなりました。ちょうど同じ日、大陸を渡っての3カ月の旅行を経て、親愛なるヴァラルド神父が中国に到着しました。ボネッリ神父の遺体は南京の墓地に埋葬されています。そうだ、中国に残っている私たちのすべてがこれです。
ロアッタ神父:
その時期のあなた方の働きは、どういうことでしたか。
ベルティーノ神父:
召命でも、使徒的働きでもよく発展していました。南京では6回の引っ越しをしました。どんどん成長していくので、場所がいつも手狭だったという感じでした。
ロアッタ神父:
あなた方の修道院を持つことができたのですか。
ベルティーノ神父:
もちろん。しかし、ちょうどそのとき、それを共産軍の侵入がひと押しで流し去ってしまいました。
ロアッタ神父:
つまり南京ではかなり形が整ってきていたわけですね。
ベルティーノ神父:
最初の中国人兄弟たちは、南京の修道院建設をじょうずに取り仕切ってくれました。1948年に建物の最初の部分の落成と祝別が、諸権威者や多くの友人たちを招待して行われました。1949年2月20日です。計画としては、広い敷地を使って立派な神学校を建てるはずでした。すでに印刷関係の相当の設備を持つようになっていましたから。ところが、その直後の1949年4月24日には、共産党軍が南京市街地になだれこんできました。喜びのうちに落成を祝ったばかりの私たちでしたが、はじまりは終わりだったのです。追放に至るのは1952年の夏です。それまでの3年間は「強制」が続き、ますます困難になっていく 3年間でした。
◆6--3 旅、そして旅
- 1) 新たな旅のはじまり
- 2) アルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロ はじめて東洋へ
- → 聖パウロに向かって東洋のためにする祈り
- 3) インドへ
- 4) シスターテクラ・メルロ、フィリピンへ
- 5) フィリピン諸島から
- 6) ついに見ることのできなかった中国
- 7) ベルティーノ神父の証言からみる中国(1)
- 8) ベルティーノ神父の証言からみる中国(2)
- 9) ベルティーノ神父の証言からみる中国(3)
- 10) ベルティーノ神父の証言からみる中国(4)
- 11) ベルティーノ神父の証言からみる中国(5)
- 12) ヴァラルド神父の中国への旅の回想から