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新世紀ルーツへの巡礼

目次

6--3 旅、そして旅

12) ヴァラルド神父の中国への旅の回想から

中央がヴァラルド神父
中央がヴァラルド神父

アルベリオーネ神父の目は、さらに世界に向けられ、新しい地への派遣とすでに開設された地へのさらなる前進、強化のために、パウロの息子、娘を世界各地に派遣しています。

その中のひとつに中国があります。

1947 年のことです。一人のパウロ会士はアルベリオーネ神父から「中国へ行かないか」と呼びかけられました。そのときは、派遣されてから4年後中国からの宣教師追放という出来事がおこるとは夢にも思わず、彼は「はい」と答えました。その名はヴァラルド神父であり、当時29歳でした。

中国追放後は33歳で日本に派遣され、46年間日本の宣教師として、主に会員の養成にあたり、パウロ家族の“霊性のマエストロ(師)”としてアルベリオーネ神父の精神を伝え、活躍し、天に召されたのでした。彼を、日本人の聖パウロ修道会司祭第1号である桑島神父は、「ヴァラルド神父様は、日本におけるジャッカルド神父様のような存在であった」と言っています。

そのヴァラルド神父は、中国への旅を回想し次のように語っています。

あのころたくさんの人が、あっちこっちに派遣されたときでしたが、アルベリオーネ神父は、私に最初は「フランスに行きなさい」と言われたのです。それから1 年ぐらいたったとき、私が階段を昇っていると、アルベリオーネ神父が、「フランスのパスポートはできましたか」といわれたので、「いいえ、まだ途中です」と答えると、「では、待ってください」と言われました。しばらくたって、私は、彼から呼ばれました。そして、「中国に行ってみるか」と言われるので、「もし、行け、といわれるのでしたら、行きます」と答えました。1946年9月のことでした。

アルベリオーネ神父は、私に少し英語を学んだ方がいいと思われたのでしょう。私は、1947年12月にアメリカに向けて出発し、そこで4、5カ月滞在し、翌年6月にニューヨークから中国に向けて出航し、8月4日に上海に到着しました。

そこで、日本に派遣される3人の聖パウロ女子修道会のシスターとお会いしました。

そのころ、修道院は南京にあったので、上海に行くときには、よその修道院でお世話になりました。
南京には、3年くらいいました。南京に入ったのは1949年でした。1年の間は、なんでもすることができました。建物も建てたし、訪問宣教もしていました。一年たってからは……。

まず外国からの寄付は没収とか、許可なしには町から出てもいけないとか、いろいろなことがありました。

私は前から十二指腸潰瘍だったので、そこにあったフランシスケンの病院に入院しました。しかし、そこでは手術はできないが、上海に行けば、まだ可能性があるから、行ったらいいでしょう、といわれました。上海に行くには許可や手続きが必要なので、ちゃんと準備して提出しましたが、返事がこないのです。そこで、行ってみると、向こうの人は、「私たちはこの書類は信じない。カトリックの病院だから。市民病院に行って、そこで診てもらえ」という返事でした。かなり大きなその病院に行って、検査を受けました。

カトリック病院では手術の必要がある、というのに反して、こちらでは、したらいい、ぐらいのことで、そこに入院しました。毎日、何回も診察があったり、いろいろなことを尋ねられたりしまた。しかし、朝鮮戦争がはじまっていて、すべてがそちらに向けられてしまい、その病院では何の治療もできなくなってしまいました。このことをプロテスタントの先生が周囲を気にしながら、私に教えてくださったのです。

その当時、中国では、もう何もできないから私たちの修道会は全員中国を出ていくことを考えていました。中国における「聖パウロ修道会」は、もう解散しており、法律の前には存在していなかったのです。

私たちは、二人の中国人をローマに送りたかったので、仕事を探すという理由で、だんだん南に下りていきました。志願者たちは、食べさせることもできないので、家に帰すことにしました。神学生は3人いました。彼らに対してのコントロールはずっときびしいものでした。

マカオにサレジアン・プレスがあって、前からいろいろの連絡がありました。そこで、ローマに二人を送りたいので、もし、そちらに無事に到着したらローマに送ってください、と連絡しました。見つかったらだめですが。ところが、しばらくしてから電報が着ました。「二冊の本は着きました」と。それだけで、わかったのです。残念ながら、後からだめになったのですが。

私たちは皆、中国から出るつもりでした。しかし、私は病気だという理由で、もうひとりの修道士はお母さんが病気だったので、その理由で認可を頼みました。そして、許可が出ました。しかし、出発する前に「私何某は、○月○日に中国を出るので、意義のある人は申し出てください」ということを新聞に載せなければなりませんでした。

その広告を出した後に、信者のグループから「神父様が出ていかれるのは残念です。神父様がいらっしゃらなくなれば、私たちはどうなるでしょうか。どうか、とどまってください」、と書いてある手紙が届いたのです。私たちは手紙を見て、びっくりしました。もし、その手紙が検閲に引っかかったら、私たちだけではなく、彼らも大変なことになります。私は読んでからすぐこの手紙を焼き捨てました。

しかし、何ごともおこらず、出国の準備ができました。私たちがもって出ることのできるものも決められていて、本ならば、タイトルまで書かなければならなりませんでした。

やっと出発の日が来て、南京に行く前にバチカン大使にあいさつに行きました。上海に着いたら、もう、それ以上は進めないのです。空襲とか、いろいろあり、そこで、荷物を下ろされ、調べられました。

とても危なかったことは、私たちは自分たちの土地の書類をそのまま持って出るわけにいかなかったので、その写真を取ってもっていくことにしましたが、それでも、ポケットに入れていれば捕まるでしょう。

そこで、ひとりの修道士が、英語とイタリア語の辞典の表紙の裏をはがして、そこに入れました。上海に降りたときに本も一冊ずつ調べられました。その本を取りあげて調べながら、検査員は、もう少しで本を破って調べようとしました。そのときに、だれかが呼んだか、話しかけたかで、大丈夫でした。助かったのです。あれを見つけられていたら、どうなっていたかわかりません。

私たちは、修道院に行って泊まったのです。その本のタイトルもリストに入っているので、その本を発送することもできません。そこでイエズス会の書院に行って、昔あった黒い表紙の死者の典礼書を一冊買って、それに入れ替えて送ったわけです。

香港に到着してから、アルベリオーネ神父の返事を待ちました。

出発前に中国の院長がアルベリオーネ神父に、「この人たちが中国を出るが、その後どうすべきか、その返事は香港のミラノ宣教会にください」との手紙をだしていました。その返事は「日本に行ってください。向こうで待っていますから」ということでした。日本行きのビザ取得のためには数カ月かかるとのこと。フィリピン行きはすぐ出るということでしたのでフィリピンで待つことにしました。
 私が中国を出たのは、1951年5月のはじめごろでした。

私が中国を出た後、残った3人は中国を出ることができるように申請しましたが、断られ、国民裁判にかけられてから出されました。彼らはいつも警察から監視されていました。私たちは、危機一髪で捕まらないで出ることができたのです。

私は中国での滞在は3年だけしたが、アルベリオーネ神父の命令に従い、1951年中国を後にし、フィリピン経由で日本にやってきました。それは8月15日、聖母被昇天の祝日の日でした。

日本に着いから、日本語の勉強をはじめました。そのときの六本木のフランシスカンの日本語学校で学んでいたのは、フランシスコ会士など、ほとんどが中国から来た人たちだったのです。

そして、7年後の1954年、アルベリオーネ神父とシスターテクラ・メルロが第2回目の来日の際、アルベリオーネ神父と出会うことができました。

◆6--3 旅、そして旅


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