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中浦ジュリアン神父


中浦ジュリアン
島原教会 中浦ジュリアン像

中浦ジュリアンは、1568(永禄11)年に、キリシタン大名大村純忠の家臣で中浦も領主であった小佐々佐甚五郎の長男として生まれました。父甚五郎は、ジュリアンが2歳のころに久津峠の戦いで亡くなりました。
 12歳になったジュリアンは有馬のセミナリオの第1期生として入学しました。

 イエズス会の巡察師であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は、日本巡察の報告のためにローマに帰るとき、日本の宣教の資金を得るため、また日本の教会を紹介するためにキリシタンの少年たちをローマに派遣することを決めました。天正少年使節団です。
 セミナリオの生徒の中から4人の少年が選ばれました。ジュリアンは副使として選ばれました。

 1582(天正9)年、ヴァリニャーノ神父とメスキータ、4人の少年使節を乗せた船は長崎港を出港しました。途中、インド管区長となったヴァリニャーノ神父はインドに残り、少年たちは8年の月日をかけてローマに着きました。しかし、ジュリアンはこの旅の最大の目的であったローマ教皇グレゴリオ13世に謁見する直前に、三日熱で高熱を出して倒れました。周囲が反対する中、ジュリアンは「教皇様に会えば回復する」と言い張り、特別な計らいによって、教皇に謁見することができました。愛情あふれる教皇との出会いは、ジュリアンの中に深く刻み込まれました。

天正少年使節団
天正少年使節団

1590(天正18)年に、無事長い旅を終え日本に戻った少年たちは、聚楽第で豊臣秀吉と謁見しました。秀吉は彼らを気に入り、仕官を勧めましたが、彼らはそれを断りました。少年たちは天草にあったイエズス会の修練院に入り、天草のコレジヨで4年間学びました。1593(天正20)年7月、2年間の修練期を終え、4人はそろって河浦の教会で初誓願を宣立しました。その後、ジュリアンはイルマン(修道士)として南肥後の八代に派遣されました。

 1601(慶長6)年、セミナリオの同期生であった、セバスチャン木村やルイス・ニアバラは長崎で司祭に叙階されましたが、ジュリアンは神学の勉強のためにマカオのコレジヨに移り、3年間神学を学んで帰国しましたが、司祭叙階は許されず、有馬、京都、博多、福岡の教会で働きました。

 1608(慶長13)年、ジュリアンは長崎で司祭に叙階されました。セミナリオへ入学してから28年が過ぎていました。

中浦ジュリアン

1614(慶長19)年の徳川幕府によるキリシタン禁止令の下、長崎であまり顔が知られていなかったジュリアン神父は、残留組となり、口之津を拠点に潜伏活動を続けました。そこから、天草、八代、柳川、小倉など九州各地の信者の世話に奔走しました。

 1632(寛永9)年、ジュリアン神父はとうとう小倉で捕らえられ、長崎のクルス町の牢に送られました。
 1633(寛永10)年10月18日、ジュリアン神父は他の7人の宣教師と共に西坂の刑場に連行されました。刑場に入るとき、ジュリアン神父は、「わたしはローマに行った中浦神父です」と叫びました。宣教師たちは穴吊りの刑にされ、イエズス会の管区長代理であったクリストファン・フェレイラ神父は転びましたが、他の宣教師たちはみな殉教をどけました。ジュリアン神父は、4日後の10月21日に「この大きな苦しみは神の愛のため」という言葉を残して息をひきとりました。

 享年64歳でした。彼らの遺体は焼かれて、灰は長崎の港の入り口海にまかれました。



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